COLUMN

コラム
OUR HERO ―沈まぬ仙台の太陽―

左腕に巻かれた青や赤の腕章。時を重ねて、チームを率いるキャプテンの証が似合う選手となっていた梁勇基。初めてのキャプテンマークは、2007シーズンの最終節、第52節徳島ヴォルティス戦で「全試合出場のご褒美」として渡されたものだった。固定のキャプテンを設けなかったこの年、主にキャプテンマークを身に着けていたのは“ミスターベガルタ”千葉直樹さんだった。梁はゲームキャプテンとして公式戦では初めてコイントスに赴き、チームを代表する役割を担った。試合後には「ずっしり重かったですね」と苦笑い。
しかし機は熟していた。翌年からは正式にキャプテンと任命され、名実ともにチームの中心的存在となっていった。

新米キャプテン。2008年は開幕から真新しいキャプテンマークを身につけて、チームを導こうと奮闘した。肩に力も入っていただろう。そんな時も常に周りには彼を支えるたくさんの手や目があった。入場直前、ロッカールームから出てくる梁はキャプテンマークをまだ身につけていない。その腕章は出口で待っていた当時の強化部長、丹治祥庸さん(現モンテディオ山形ゼネラルマネージャー)に手渡して巻いてもらうのが恒例だった。キャプテンも強化部長も「1年生」。どんな時も自らを信じてくれる丹治さんに「お守り」のようにつけてもらうことが、二人だけのお決まりの儀式だった。「点を取れ」「けがをするな」「絶対に勝つぞ」巻き終わった最後に、両手で包んで念を込めた。それに応えようと梁は走り続けた。

まだ細かった二の腕からキャプテンマークは試合中、何度もずり落ちた。初々しいキャプテンは、プレーが途切れると気合を入れるかのように何度もそれを直していた。その姿を見かねたのが当時トレーニングウェアやユニフォームの洗濯を担っていた専門の女性スタッフたち。「洗濯のおばちゃんがゴムをつけてくれました」と嬉しそうに見せてくれた。黒い滑り止めのゴムの輪は梁の二の腕のサイズに合わせ、手縫いでしっかりと付けられていた。ほつれそうになったら、言わなくても次の試合にはさらに頑丈に縫い付けられていたそうだ。母のように優しく見守る目があった。ゴムを広げて腕を通し、ぐるりと巻いて、最後にマジックテープで止める。もう試合中に左腕を気にすることもなくなった。いつしか、そのゴムも必要なくなった。(キャプテンマーク自体の素材が滑りにくいものに変わったこともその理由ではあるが)「145試合」というJ2連続試合出場記録を更新し続け、多くの経験を経て、彼の腕は太く、たくましくなった。そこには当たり前のようにキャプテンマークがついていた。

「今はキャプテンマークを巻いて試合に出ることが、自分のモチベーションになっています」と話した2008年12月。J1・J2入れ替え戦ではあと一歩届かなかった夢に、苦い涙を飲みこんだ。「周りの選手に『良いキャプテンになってきたね』と言ってもらえるようになってきました」。そうはにかんだのは「涙のヤマハスタジアム」から約一年後の2009年の12月だった。彼はユアスタでサポーターに向かってJ2優勝のシャーレを掲げた。涙を流した日にも、歓喜の瞬間にも、梁の左腕にはキャプテンマークが光っていた。

「自分が、自分が」と前に出るわけではない。しかし選手同士が練習場で意見を交わし激しくぶつかってしまったら、すかさず間に入った。何かがうまく回らない時に、「梁がそう思うなら」と年上の選手たちも彼に意見を求め、その考えを支持した。それだけの説得力があったのだ。全ての姿勢に、行動に、彼の責任感はにじみ出ていた。

必ずしも口数が多く、大きな声で仲間を一つにするようなタイプではない。いや、言葉はいらなかったのかもしれない。ピッチで戦い、プレーで進むべき方向を示し続けた。華麗に、時には泥臭くチームを勝利に導いてきた。唯一無二の存在感、それが梁勇基らしいキャプテンとしてのスタイルだった。リーダーの証を巻いていても、巻いていなくても、やっぱり彼こそがベガルタ仙台を象徴する存在だったのだなと改めて思い知らされている。

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