サッカーが好きな人ならば、その番号の重みは言わずともわかっている。
「チームを勝利に導く者」。誰もが認めるエースのみが身に着けることを許される番号だ。
ベガルタ仙台の歴史で、「背番号10」を担ったのは、中島浩司、財前宣之、梁勇基、そして現在の鎌田大夢。歴代で4人しかいない。2006~2019年、2022~2023年、16年間と、梁はもっとも長くその番号を背負った。ベガルタ仙台の「背番号10」は彼の代名詞となった。
生まれ育った大阪を遠く離れて、縁もゆかりもなかった杜の都で妻と暮らした。現役生活の間、4人の可愛い息子に恵まれた。2018年4月には「J1 J2通算500試合出場」を達成。幼い息子4人が手をつないで、ずらりとピッチに入場し、父へ記念の花束を渡す姿に頬が緩んだ。
当時まだ2歳、よちよち歩きの双子たちも背中に「10」のTシャツを着ていた。現在、長男は中学1年生、次男は小学5年生、末っ子たちは小学3年生にまで成長した。サッカーをしている彼らにも父の大きな背中は十分伝わっている。
あれは確か2018年、梁が冗談めかしながら、ぼそっとつぶやいた。「もう引退するという時が来たら、最後の1年、(西村)拓真(現:横浜F・マリノス所属)は『30』を譲ってくれへんかな」。結局、このプランは実行されなかったが、最後はルーキー時代の番号で初心に戻る。そんな思いもあっただろうか。背負い続けた10番の重さを、改めてずしりと感じた瞬間だった。
16年間戦い続けた仙台を離れ、2020年から2年間サガン鳥栖でプレーした。その時の背番号は鳥栖で一番大きな番号だったという「50」。新天地での日々にフレッシュな気持ちで挑むために選んだ。2022年、仙台への復帰が打診された時も、実は「10」は遠慮しようと考えていた。「鳥栖と同じ50を選ぼうと思っていたら、もうヤス(遠藤康)がつけることが決まっていた。譲ってくれなかった」。同年、鹿島アントラーズから生まれ故郷に帰って来た遠藤が、一足先に「50」を選んでいたのだ。早い者勝ちだったようだが、それも運命なのかもしれない。2020、2021と仙台では寂しい空き番号となっていた「背番号10」が再び輝き始めた。
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2024シーズン、「背番号10」は鎌田大夢選手に引き継がれた。梁もクラブもこの番号を空き番号にせず、すぐに次世代へつないだ。シーズン前半、なかなかチャンスに恵まれず、苦しむ鎌田に期待を込めて発破をかけた。そしてすぐに「ちょっとプレッシャーかけ過ぎたかな」と気にする梁の姿があった。「大夢は大夢らしい10番になって欲しい」。チームを勝利に導く方法は一つではない。アプローチや道筋は異なっても、自由な発想でゴールに、勝利にたどり着けばいい。新しい10番の躍進を誰よりも願っているのが、梁勇基自身なのだ。それができると信じているからこそ、思い切って「新10番」の背中を押す。
20年間で、戦った試合はJリーグ通算577試合。連続試合出場数は213試合。決めたゴールは76。数字でも存在感でも、鉄人は誰にも負けないものを示し続けた。スタジアムで長年見かける「10番」のユニフォーム。その数の多さもサポーターからの揺るぎない信頼を表している。記録でも記憶でも、唯一無二。彼を超えるのは至難の業だが、偉大過ぎる背中を追いかけ、いつの日か追い越す選手が現れることも、仙台の新しい夢なのかもしれない。